他者を咎める
他者の言動を常に咎める自分に気付きます。
それは、自分とは別として見ているからで、その内側を見るなら、本当に憎んでいるんだなーと自覚します。
それは、自分自身を憎んでいるということであり、それは、神を憎んでいるということであり、
それは、天国から追放された夢、神から分離した罪悪の夢、
それは、「やってしまった!」という罪あるゆえの罪悪感による処罰の夢。
そんな悪夢の主人公になってしまった自分を恨んで、それを神に投影し、
それを外側に投げ出して、世界の中で他者の中に見ている。(特別な関係・特別な憎悪の関係)
それはただ、やってもいない罪を信じて、実在不可能である分離の夢を信じたことによって生じた、苦しみと悲しみのストーリーに埋没しているだけなのに、です。
他者を咎めるなら、他者を裁くなら、
他者を咎めるなら、他者を裁くなら、自分がそのあり得ない嘘(分離)を信じていて、自分自身を憎しみの炎で焼き殺そうとしているのだということを認識するなら、目の前の憎むべき他者は、自分自身の間違いを教えてくれる教師となり、私はそれにより平安を思い出し、自分は本当は誰だったのかを思い出していくことができます。
これがコースが提示している赦しによる救済であり、他者を咎めようが裁こうが、それに気づき、真実を見たいと望むなら、それを使って憎悪の夢から目覚めていくことができます。
あるがままの神聖さ
そうして、憎悪を見て、自分自身を赦すなら、そこから何が見えてくるのでしょうか?
その人の言動と、その人の聖性・神聖さは関係ないんだ、ということです。
なぜなら、その存在自体が神聖だからです。
目の前の人がそう見えることで、自分自身も神聖だということを思い出し、それを学ぶことができます。
その時、自我を教師とした肉眼ではなく、聖霊と共に心眼から見ていることになります。
それは、鏡に映った自分自身の姿に神聖さを見ていることと同じです。
完全さというか、感謝というか、生来与えられているもの、本質、実存、実在、被造物、キリストの顔….
その時、目の前の人は人には見えても人ですらなく、自分と同じ神聖さを共有している同朋・兄弟として見えています。
私たちの本質と言動は関係ない….
ここから見えるのは、私たちの本質にある神聖さ・聖性と、表向きの言動は関係ないということです。
しかし、今までは言動が重要だと思っていたので、言動を変えていい人になろう、素晴らしい人になろうとしていたわけです。
そうして、目の前の人の言動を自分なりの間違った基準でジャッジして、いい悪い、優れている優れていないなどと裁いてきたのです。
それが、すでに与えられていた私たちの本質である神聖さ・聖性を見ないために隠し持ってきた自我のトリックです。
そして、私たちが本質に目覚めた時、神聖さ・聖性と言動は一致してくるので、自ずと言動や生き方が変わってくるのでしょう。
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