自我としてのワンネスから

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一なる心が悪夢を見ている

一なる心が、分離の夢を信じて笑うことを忘れた。
一なる心が、分離の妄想を信じて分裂した部分になってしまった。
それは単なる間違いであって、すでに訂正されて、すでに終わっている。

別々だと思っているけど、本当は一なる心なのだから、実は、分離の夢も全員同じ夢を見ている。

自分だけではないんだ。

その中では、時空間の認識も、宇宙の仕組みも、地球の摂理も、人間・生き物としての本能の営みや価値観、物質としての構造など、すべて共有している。

始まりと終わり、生まれて死ぬ、得て失う、破壊と再生、諸行無常。

罪・罪悪感・恐れ、孤独・虚無・絶望、苦痛・苦しみ・葛藤、裁き・攻撃・戦い。

自我の想念・自我の摂理もみんな一致して、共有している。

自我としての根本、世界や人間としての根本、源は同じ。

ここにワンネスがある。

本当は一なる心なんだと垣間見させてくれる、自我としてのワンネスがある。

証拠の使い道

私たちは今まで、分離を保持するために、分離の中で”分離したという証拠”を探して、そればかり見てきた。

しかし、分離の中でも”分離していないという証拠”がある。

私たちは”自我として同じだ”という証拠。

でもそれを見つけないように、”別々だと証明するための証拠”だけを見つづけてきた。

「本当は一なる心なんだよ」と教えてくれている聖霊の声を、自我の中で認識できるもの。

それは、この世界にいると信じているすべてのものに共通する根本的な証拠。

自我としてのワンネス。

ここに、存在論的罪悪感・恐れ、自我の源がギフトとなり得る瞬間がある。

そして、そこで「でもそれは夢なんだよ。悪夢の中に入り込んだだけだよ。」と、更なる真理からの呼びかけの声が聞こえてくる。

天の岩戸は、今開かれる

自我の源、自我のワンネス。

「あー、みんな同じだった。みんな同じ悪夢を見ているだけだ。」とわかるとき、裁きと攻撃は鎮まる。

全員同じ。源は同じ。

差異のない世界で、どうして違いを見出して、裁けるのだろう?

私たちはこの自我の源まで戻って立ち返り、その扉の前でじっと待つ。

その扉の前で、天の岩戸が開かれるのをじっと待つ。

私たちはその祭壇に、自分で作り出して大切に隠し持ってきた紛い物のすべてを差し出して、祈る。

すると、静かに扉は開かれ、神が姿を現すだろう。

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この記事を書いた人

「ACIMノンデュアリティアカデミー」を運営させていただきながら、ACIM(奇跡のコース/奇跡講座)のコース形而上学をもとに、非二元の内的探求を続けています。

こちらでは、真面目な話からゆる〜い話まで、自由に書いていきたいと思います。

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