私たちは、自分の考えの奴隷となってしまっている
苦しんでいる時、動揺がある時、自分の考えと内側をよく見るなら、私たちは、自分の考えの奴隷となっていることに気付きます。
自分のでっち上げた考え(分離の想念)を信じて、その考えで自分を束縛し、その考えに忠誠を誓って、その考えの奴隷になっている。
これが、小さな狂った考えを信じて深刻になるということであり、笑うことを忘れてしまった神の子の状態、と言えます。
この状態を、比喩で”牢獄で服役中の罪人”と言ったりしますが、服役中の罪人であれば真面目に服役(生活)していれば、まだその中での自由や幸せがあるかのようにも見えます。
そして、これ今の私たちの状態です。
牢獄の中で、苦しみ・苦痛は最小限に、喜び(快楽)は最大限に保とうとする試みを模索し続けている。
しかし、それは不安定なものなので、いつでも変化し、奪われ、囚われ、監禁され、奴隷となり得るし、そもそも今がそうなんだということ。
そうやって、自由の方が儚い夢となり、やがて無抵抗になり、隷属状態から逃げ出す意欲も削ぎ取られていく。
これを無意識のところで、自分で自分にやっている。しかも、やりたくてやっている。
分離の考えを信じたくて信じて、自ら罪人・奴隷となっている。
コースを全く知らない人に向かってこれを信じろと言っても、到底無理で無益な話だが、コースを学んで実践していくと、「あー本当だ」と見えてくる。
そして、この自分とは、実は神の子なのだ。
神の子とは?
神の子とは、
概念上、原因と結果の法則により、神が原因で神の子は結果ではあるが、そこに境目はなく限りなく一体性のもと永遠に創造し続けている。
この、神と永遠に一体の神の子が、罪人であったり、奴隷であったりするだろうか?
これが、”神から分離したと信じた神の子自身の夢の中”だけではあり得るのだが、それが真実になることは決してない。
しかし、このありえない妄想を信じて、その妄想の中に閉じ込められ(自分を閉じ込め)、嘆き悲しみ、恐れ苦しんでいる自分とは、一体全体なにをしているのだろうか?
あり得ない妄想を信じている神の子
この疑問、この視点、この識別こそが、私たちの救済であると言えます。
自我と同一化した自分は今、なにをしているのか?
そして本当は何なのか?
この両方を見比べることによって、ありえないことを信じていることがどんどん明白になってきます。
これが聖霊と共に見るということであり、この両方とも見える視点が決断の主体であり、自分で望んだ間違った選択の代償を自覚して、正気(正しい見方、正しい在り方)を思い出し、選択し直す(=自我を選択することをやめる=聖霊を望む)ことできるのです。
この赦しの実践をしていくことで、私たちは自分は本当は誰なのか?(神と一体の神の子)を思い出し、聖性と平安を学んでいくことができるのです。
すると、「自分はあり得ない妄想を信じて苦しんでいただけなんだー」と気づき、シフトが起こります。
そうして神の子は、深刻の沼から解放され、本来の微笑みを取り戻すのでした。
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