真理を否定するなら、私たちは恐れる。
見えている世界や、起きていることは、幻想の中ではありながらも、ありのままに見るなら、すべてが神からのものだと見ることができます。
なので、これに異を唱えるならば、すでに真理を否定していることになります。
真理を否定するなら、私たちは無条件に恐れます。
そして、この世界や状況から自分を守るために、戦うことになるのです。
それは神を求めながらも、神との終わりなき戦いを挑んでいるのだということを、認識していません。
真理を否定するなら、私たちは恐れからは逃れられません。
つまり、恐れのない世界とは、否定のない世界のことなのです。
心に戻って見るなら
目の前の出来事や世界に異を唱えるなら、私たちはすでに真理を否定しているのだということならば、私たちは「真理を求めながらも、常に真理を否定しているぞ」ということがわかってきます。
なぜなら、世界の出来事や状況、他者に対して、常に不平不満を唱えているからです。
見ている世界とは、私たちの心の状態です。(=内的状況の外的映像)
外側に見ているように見えて、実は内側を見ているのです。(=内と外は同じ)
なので、見ているもの、知覚しているものはすべて自分の内側にあるものです。
つまり、世界とは、自分自身です。(=心である自己)
そして、このように見えているなら、心に戻って聖霊を教師として見ていることになります。
真理を否定することは、自分自身を否定すること
世界や他者を否定するなら、自分自身を否定しています。
見ている世界や起こっている状況を否定するなら、真理を否定することになります。
そして、このことは、「私たちはすでに真理を否定したからここにいる」と信じていることを教えてくれています。
それは、「私たちの本性である神の一人子を否定した」ということになります。
つまり、それは「自分自身を傷つけ、自分自身と戦い、自分自身を苦しめている」ということなのです。
これが、自我と同一化した私たち(肉体・個人)がしていることです。
「真理の否定の否定」の道
私たちは、真理を否定をして、今この世界の中で生きていると思っています。
そして、それを”自分が望んでした”ということを忘れてしまっています。
これは、真の自己を否定して、偽りの自己が自分だと”嘘をついている”ことになり、同時に、”それが嘘だとどこかで知っていることによる罪悪感”から逃れられないことを、隠すためです。
なので、この「真理の否定」を否定して取り消すことが赦しであり、それが間違いの訂正(=奇跡)となっています。
つまり、私たちは真理を求め、真理を肯定していく道ではなく、無意識ですでに真理を否定したことを認識して、それを否定することで、”何も起こっていない”と訂正していく道を歩んでいます。
これは相互排他的ものの見方であり、自我にとっては非常にややこしくて、間接的なアプローチのため、ダイレクトに真理を求める方が近道のように感じられます。
しかし、この一見遠回りのように見える道こそ、自我が仕掛けた複雑なトリックの迷路に迷うことなく、確実にくぐり抜けていける早道となっていることに、気づけるならば幸いと言えるでしょう。
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