橋を超えると学びは加速してくる

私はこのアカデミーで学び始めて6年目となります。

それは同時に、アカデミーができて6年目ということになります。

6年というと、非常に長く感じられますが、学びとはある意味年単位で深まっていく感じがするので、自分の感覚で言うと3、4回の節目を過ぎてきたくらいの感じです。

そして今、大きな節目があり、やっと次の段階(=本当の学びの始まり)に進めた様な気がしています。

人生をかけてグルを探し、探究していた昔に比べれば、自宅にいながら、家族と共に暮らしながら、仕事をしながら、学び・探究を続けられる今の世界は非常にありがたいことだと思います。

向かい風に向かって

しかし、この6年間は非常に苦しい旅でした。

自我と同一化したまま、自分を肉体だと信じながらコースを学ぶということは、心の奥底の無意識の部分では強く求めてはいるものの、自分が今神として崇めている信仰心(自我)と相反する敵対する信仰(聖霊)を受け入れていく様なものなので、非常に抵抗・葛藤するからです。

その抵抗・葛藤と向き合いながら歩む道のりは、そう簡単なものではないと想像することは容易いことでしょう。

ワプニック博士は、これを”向い風”として表現されていますが、荒れ狂う台風の中を向かい風に向かって歩いている様なもので、前に進むどころか、前方も見えず、方角もわからず、立っているのが精一杯という状況の中で、ただ真実を知りたいとか、目覚めたいという、内側から湧き出る止めようのない声だけを頼りに、歩んでいく孤独な旅です。

しかし、そうはいっても1人ではありません。

どうしても止めようのない内なる声があって、その声に従って進んでいくなら、学ぶ仲間がいて、学ぶ環境があって、学びから逃げられない立場があって、学びを続けていける助けがあらわれる。

この道は完璧に用意されているということが感じられますし、すでに決まっているんだなーとも感じられます。

そして、本当はすでに終わっているのです。

茨の道

しかし、この茨の道とも言える学びの旅路は、やはりそう簡単なものではありません。

何度も離脱したくなる思いが湧きますし、非常に苦しくて死んだ方がマシなんじゃないかという考えも湧いてきます。

また、こんなことをして何になるんだと目標を見失ったり、恐れが強すぎて気が狂いそうになったり、もうダメかもしれないと思うことは何度もありました。

それでも、ここまで離脱することなく歩めてきたのは、共に学ぶ環境(アカデミー)があり、定期的に頻繁に正気に戻る環境(クラスやクラス動画)があり、それにより、正気の見方を学んで自我に気づける様になってきたからです。

(しかし、夢の外から見るなら、自分の努力や強い意志などでもなく、誰の力でもなく、この様なストーリーになってたとしか言いようがありませんが。。。)

こうして学んできて、この夏は最大の恐れの中にいました。(今もですが)

真理の橋の手前で立ちすくむ恐れです。もう怖くて怖くてしょうがないのです。

自分が消える恐れ。自己が死ぬ恐れ。全てを失う恐れ。

これは同時に、本当の自分を思い出すことへの恐れです。

私は2ヶ月ほど、橋の手前で震えながら立ち竦んだままでした。

そんな時、大阪でリトリートがありました。

私はずっと参加を拒絶していたのですが、リトリートの日が近づいたある日、ふと思い立って参加することにしました。

これをきっかけとして、10代の頃からずっと握りしめていた思いが溶け去りました。

私の人生のほとんどの期間において、探し続けてきた想いです。

それを知ることは無理なんだと悟った時、絶望と諦めと同時にだんだん心が開いてきました。

橋を渡る

そこからまた、いろんなことが見えてきました。

そして8月のある日の個人セッションで、とうとう橋を渡りました。

橋を渡るのは初めてではなのですが、今回は決定的なシフトとなりました。

体験的に、本当に何もないことを受け入れられたからです。

そこには本当に、何もない静寂のみがありました。

それは、今ここに同時にあり、今までずっと常にあったものでした。

これに気づけなかったなんて。。。これを避けていたなんて。。。

愕然としたと同時に、深い安堵感と感謝の涙が流れてきました。

加速する学び

ここから見方がシフトしていきました。

今までコースで学んできた、「本当はこうなのに」と言う一元的思考体系の方が土台となってきたからです。

そうなると、向かう方向が統一されてくるので、抵抗や葛藤が薄れてきます。

抵抗や葛藤自体も自我だからです。

恐れも単に実在しない想念であり、死も同様に恐れるべきような実在するものではありません。

それを邪悪なものとして避けようとしたり、考えること自体が拒絶して力を与えているということに気づいていかなければなりません。

それには何の力もないので、怖いことや邪悪なことを考えようが、妄想しようが問題ではないからです。

それを問題と見ることが、力を与え実在のものとするための自我のトリックだからです。

それでも、私たちはまだ自我を信じているので恐れていますが、それに気づいてみるなら、「あ、そうだった」と正気に戻りやすくなってきます。

「あ、なーんだ、夢か。」これは夢なんだと思い出しやすくなってきます。

そして、この夢を見続けていたい自分を赦す様になってきます。

この夢は延々と続くことを。

この夢は終わることはなく、自分で終わらせることもできず、この夢の主人公はこの夢から目覚めることはないことを赦すなら、何の問題もないことがわかってきます。

これが、絶望です。そして、ここに平安と解放があります。

息をするように赦す

こうして、だんだんと赦しが機能となり、この世界が教室となり、夢全体が自分は誰かを思い出すための学校となってきます。

そうなってくると、今まで抵抗しながら学んできたことが、当たり前の自然なものとなってきます。

ここからが、本当の学びの始まりなんだと感じます。

「今まで長かったな、やっとここかまできたのか」とは正直思いますが、本当に自我を知るための学びだったのだと思います。(=真の自己を思い出すこと。)

自我を知るには、同一化から離れて、自我を客観視できる視点が必要です。

自我を知るなら、恐れるものなど何もないとわかってしまうので、自我はこれを恐れています。

とはいえ、まだまだ夢を信じているし、自分を肉体だと信じているし、自分の考えを信じているし、動揺もします。

それが悪いことではなく、学びの後退でもなく、これを望んでいる自分を赦し、単に見方を間違っているだけであり、自分は誰かを一瞬忘れただけで、何も起こっていなかったことを思い出すことを毎瞬していく。

これが自然に、当たり前になっていくことが、今のレッスンとなっています。

息をするように赦す。私もこうなっていきたいものです。

学びの場のご紹介 ACIMノンデュアリティアカデミー

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この記事を書いた人

「ACIMノンデュアリティアカデミー」を運営させていただきながら、ACIM(奇跡のコース/奇跡講座)のコース形而上学をもとに、非二元の内的探求を続けています。

こちらでは、真面目な話からゆる〜い話まで、自由に書いていきたいと思います。

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