Q&A:人生のすべての出来事にはシナリオがあって、実は既に終わっているという教えがあります。それについてどう思いますか?

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シナリオはすでに書かれている

「シナリオ」

こちらのテーマも色々なレベルから見ることができるかと思います。
非二元的に言えば、起こることが起こっているだけ、、、この真理だけで片付いてしまうような部分もあります。

しかし、例えば、
コース的でもあり、ちょっと重たい例えかもしれませんが、、、

”私たちはイエス(象徴)であり、今すでにゴルゴダの丘を罪という十字架背負って死に向かって歩いている。と信じている。”

このシナリオは、内側をみれば「分離を信じる」という決断をした私たち全員のシナリオだと言えます。これを元に、私たちの人生のストーリーのほぼ全ての出来事の解釈を行っています。

この十字架刑を、死ととるのか、目覚め・復活ととるのか?
これがコースでいう自我のシナリオか、聖霊のシナリオか、です。

今、私たちは自分(自我)で書いた自我のシナリオ通りに見たくて見ています。

それは、すでに罪という十字架を背負って死に向かって歩んでいるという前提なので、常に恐れていて、苦しみ絶望からは逃れられません。

しかし、これを自我のシナリオだと気づくことにより、聖霊のシナリオとして使っていくことができます。

どうにもならない流れ

例えば、「どうにもならない流れみたいなものがある。」

「どうにもならない流れ」事実、世界はこればかりです。なのにどうにかなると思っているのが自我のシナリオです。

そして、「どうにもならない流れ」をそのまま受け入れた状態が、ただ起こることが起こっているという視点ですが、それを見てなんとかしようとしたり、虚無や絶望、悲しみを感じることが自我のシナリオで見ていることになります。

しかし、今自我のシナリオで見ていることに気づくなら、そのままそれを聖霊のシナリオとして赦し=目覚めのために使っていけるわけです。

自我のシナリオで見ていることに気づいて、内側を見て、虚無・絶望などを感じて、考えを疑問視して、これは真実ではないと悟り、本当は自分は誰なのかを思い出す。これが聖霊のシナリオです。

通常、私たちは自我と同一しているので、自我のシナリオしか知りません。

しかし、今アカデミーで学んでいる私たちには、この両方の側面でのシナリオが同時にあることを知っています。

自我のシナリオか、聖霊のシナリオか、の選択。

シナリオはすでに書かれています。
シナリオ通りに起こることが起こっています。

でもそのシナリオを自我のシナリオか、聖霊のシナリオか、どちらで見るかの選択肢は私たちにあり、この選択により、”ゴルゴダの丘を罪という十字架背負って死に向かって歩いている”という人類共通の悲しみのシナリオが、目覚め(復活・アセンション)へと書き換えることができる。これを私たちは、日々の中で学んでいます。

とはいえ、そのようには見えていないし、自我のシナリオに没入し続けている自分を自覚するので、またこれからも実践していきたいなーと思います。

貴重な考察の機会を与えてくださり、ありがとうございます。

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手ぶらで帰ろう〜空禾空間

ACIMノンデュアリティアカデミー事務局として運営をしています。
何気ない日常の中で、赦しの実践を続けています。

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