コップの中の泥水〜静かに沈澱するのを待ちますか?
これは、瞑想などでもよく聞かれる例え話です。
コップの中の泥水が入っています。
この水は今は濁っていますが、静か置いておくとやがて泥は沈澱して水は澄んできます。
だから、静かに瞑想すると、やがて心は鎮まり、静寂・平安になりますよ、という例えです。
泥水はかき混ぜると濁りますが、静か置いておくと、やがて泥は沈澱し、水は澄んでくるでしょう。
この比喩は、瞑想や祈りによって、動揺した心や止まらない思考なども、静かに座ることによって心を鎮め、気持ちが穏やかになり、思考もクリアになってくるという意味で、日々を平安に過ごせることを示しています。
この実践や体験は有益なので、このように、私たちは心の静けさや静寂を学んででいくことは大切です。
しかし、よく考えるなら、コップの中の泥はまだ残っているので、動揺するとまた水は濁ることになります。
そしてまた、それを鎮めようと静かに瞑想したり祈ったりして、静かに待つということをくりかえします。
すると、確かに、だんだんと熟練され、少しの動揺では水は濁らなくなるし、静けさも短時間で戻るようになってくるでしょう。
なので、これが、私たちが平安になるために訓練し、習得していくことだと思っています。
でも、そのコップの中にある泥は、一体どこにいくのでしょうか?
密かなジャッジメント
ここに、霊性の光によって隠されているものがあります。
私たちはその泥を鎮めてないことにして、澄んだ水だけを見ようとしているということです。
そこには、「泥は避けるべきものであり、濁ってはいけない」「澄んだ水の方がいい」と密かにジャッジしていることに気づけないことが多々あります。
そして、ここでよくやるのが、非二元の教えを使って「コップも水も泥もないんだ!」とか、「ないのだから、濁ろうか澄もうが関係ない!」ということです。
これがまた真実にさらに蓋をすることとなってしまいます。
なので、私たちがしていくことは、コップの泥水を鎮めて澄んだ水をみようとするだけではなく「泥が沈澱して水が澄もうが、掻き回されて泥水になろうが、どっちであっても構わない」という包含した視点に立ち返ることです。
この世界の夢は二元性の夢なので、上と下の垂直方向に、光と闇の両極にむけて深めていく必要があるのです。
どちらか一方ではうまくいきません。
そして、私たちはそもそも闇をみたくはないし、泥水は飲みたくないので、光の方、清らかな水の方にばかり目を向けていくのです。
泥池に咲く蓮の花
泥池に咲く蓮の花は、混沌と聖性の象徴といえますが、悟りや目覚めを求めて霊性の道を歩む私たちは、泥池の水面に救いのように咲く蓮の花を見て、それを求め、それになろうとします。
これは古よりある、ダイレクトに光を求める道であり、コースが提唱する間接的な目覚めのプロセスとは異なっていることを、なかなか把握しずらいものです。
なぜなら、真摯な探求者であればあるほど、一刻も早く幸せになりたいし、一刻も早く目覚めたくて霊性の道を歩んでいるので、優しく間接的なアプローチなど、本当は望んでいないからです。
もちろん、ダイレクトに光を求める道でも目覚めは可能でしょうが、それは時間がかかる厳しい道だと言われています。
と同時に、コースが示す目覚めのプロセスは、間接的ではありながらも、それがどれだけの時間の短縮になるのかが示されているにもかかわらず、探究者にとっては、なかなか受け入れ難いものなのだといえます。
なぜなら、その教えは、蓮の花を見るのではなく、泥水の方へと深く潜っていくことになるからです。
コースの学びと実践においては、蓮の花になろうとするのではなく、泥池の泥水の中に深く入っていって、沼底にある蓮根と親密になり、そこで、蓮根と泥水がなければ花は咲かないことを知るのです。
そうすることで、自分は蓮根であり、蓮であり、蓮の花でもあり、泥水でもあり、それらすべてなのだとわかるのです。
知覚のシフトと実相世界
この理解から見た世界の見方が正しい知覚であり、この知覚が、この世界にいながらもワンネスの反映から見た実相世界だといえます。
ここは、分離の想念が訂正された世界なので、ジャッジがなく、否定がなく、戦いがなく、恐れのない世界です。
私たちが体験できるのはここまでであり、これを繰り返しながら、ここで幸せな夢を見ながら、神からの最後の一手を待つ、と言われています。
しかし、その最後の一手もあるのか、ないのかも分からず、実相世界と実相はほとんど紙一重で区別などできないものであるなら、もはやこれが目覚め・悟りではないとも、ここが天国でないとも、いうことはできないということです。
これはある意味、真摯に悟りや目覚めの中に救いを求め続けてきた探究者にとっては、絶望的なものだともいえます。
それは、求めることをやめた時、初めて見えてくるものだからです。
何も変わらず、何も変えようとせず、何も変わらないし、何も変えることはできない。
ただ、ここにあるものすべてを受け入れることによって、すべてがなくて、すべてがあることを知るだけです。
どこかにある光とか、どこかにある幸せとか、いつかくる悟りや目覚めの教えは、すべて自我の作り出した虚偽の誘惑であり、それらも単に幻想の中のものだったと悟るのです。
その悟りとは諦めです。諦めとは解放です。
それは始まったと信じた瞬間と同時に、終わる瞬間があるだけだからです。
諦めと共にある、絶望、屈辱、喪失こそが、私たちが探していたゴールであり、そこが同時にスタート地点でした。
最終的には死をも受け入れる
それは、ゆえに、最終的には死があると信じている者が死をも受け入れるということであり、「私は死ぬのは怖くない!」というのなら、ありのままと戦っているので、まだ怖いのです。
全一的な視点から見るなら、死とは、私たち全員に例外なく与えられたものであり、それは真理に一番近いギフトだと言えます。
このギフトを受け取らずして、どうしてワンネスの反映を見ることができるのでしょうか?
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