※この記事は、「ACIMノンデュアリティアカデミー」のフォーラムで上がった「お題・テーマ」をもとに私なりの学びと経験からのシェアをアンサー的に書いています。
ただ、できることをしていく
私の体験上からのところでもありますが、その忙しさの中でも、ただ、できることをしていく、ということでしょうか。
もしかしたら、今の聖霊からのカリキュラムは、今まで学んできたことの”実践的小テスト”の時間なのかもしれませんから、今できる範囲で実践していく段階なのだとして、現状の中でコースの教えをできるだけ適応していくことが、今の学びなのかもしれません。
なので、その忙しさの中で、一瞬立ち止まり、コースを思い出す、形而上学を当てはめる、聖霊を思い出すことをして、一息つく。
それはトイレの中でもできるはずです。
そうして、その時、自分の問題を脇に置いて、一瞬でも聖霊を優先したことになります。
この積み重ねが、やがて、一歩下がる・丸ごと明け渡すための練習となってきます。
その上で、さらに余裕があれば、できることをしていく(今の自分の思考を見る、動揺を見るなど)。
そうすると、この忙しい時間も全く無駄ではないことがわかります。
そうしてまた落ち着いた時、コースに触れる時間やアカデミークラスに戻ると、体験的理解からの知的理解の深まりというものを感じられるのではないでしょうか。
聖霊の目覚めのためのカリキュラムは完璧
私たちに起こっていること=聖霊のカリキュラムは完璧なので、私たちはそれにあわせて学びを進めていくことができます。
つまり、聖霊から与えられているカリキュラムを信頼し、その時できることをしていくということです。
これは自分に都合のいいような解釈に感じるかもしれませんが、実際、完璧なことが起こっているわけで、それに合わせるなら、そうなるだけですし、私もそうしてきました。
そして、これが、ワークブックの実践でよくある「毎時間の初めの5分間を今日のアファメーションにささげる」的なものの応用となるのかと思います。
日常生活の忙しさの中で、コースを一瞬思い出し、自分自身の機能を思い出していくためのレッスンであり、この世界という夢の中で「何を第一とするのか?」を学んでいくものだと思っています。
真の問題ではない問題を問題として、”私がやらなきゃ、私が解決しなきゃ”とやっていることを見ていくなら、「これは本当に、聖霊を差し置いても今自分がやらなければいけないことなんだろうか?」と、問うこともできます。
そうして、この問いを持つこと自体が、すでに聖霊を思い出していることになります。
その上で、さらに時間があれば、それに対する自分の考えや内側を見ていくと、忙しさや責任に対する思い込みが整理されてくるかもしれません。
個人的には、仕事や用事が重なる時、自身や家族やペットの体調不良、通院・入院、葬儀など、また、旅行や遊びの時間など、誰にでも起こり得る出来事の中で、クラスにおいてはシステムや立場上どうしても休めなかったので、どんな時も最優先に時間を作ってきました。
今は多分休んでもシステム的にも大丈夫かと思いますが、今の所休んだことはないのでよくわからないのですが。笑
今振り返ると、そこまで頑張って参加しなくてもよかったのかなーとも思いますが(笑)、それにより、自分に与えられたカリキュラムとして最適最速での学びと訓練ができたのかなーという思いもあります。
そして、同時に、時間がある時ほどぼーっと過ごしてしまうことも多々ありますよね。笑
なので、結局は、できない自分を咎めず、無理なくできる範囲で学んでいくことかなーと思います。
ありがとうございました。
心が外的なものごとに囚われているときには、どうずればよいのだろうか。ただやってみるしかない。
教師のためのマニュアル 16.神の教師は、1日をどのように過ごすべきか 8段落:2.3
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